NHKの大河ドラマ「平清盛」を観ていると、人間にとって”血”というものは絶対的なものなのだろうか、というとても難しい疑問を投げかけられている気がして来る。けっしてそれは、あの物語のメインテーマではないのだろうが、物語の重要なテーマの一つにはなっているように思える。
平清盛は白河法皇のご落胤ながら、義理の父 平忠盛に感化されながら立派な武家の棟梁になって行く。平忠盛は”血”のつながっていない清盛を必死で育て上げて行く。また、祖父と孫の関係にありながら軋轢を持つ白河法皇と鳥羽天皇が描かれていたりする。
同じ天皇家から臣籍降下して武士となった平氏と源氏が争ったりするし(
平氏は第50代 桓武天皇の子孫、源氏は第56代 清和天皇の子孫だが、清和天皇は紛れもなく桓武天皇の直系だ。清和天皇の父親が文徳天皇、文徳天皇の父親が仁明天皇、仁明天皇の父親が嵯峨天皇だが、嵯峨天皇は桓武天皇の息子だ。)、
保元の乱では、同じ源氏である父 源為義、八男 源為朝親子と、長男 源義朝が敵味方に別れて戦ったりする。
”血”なんかより”損得”だよ、今の世の中だって金の為に骨肉の争いが起きるじゃないかと、安易に現代的な解釈をしたいのではない。環境とか、愛情とか、義理とか、恩とか、大義とか、それぞれの正義とか、色々な想いで人間は縛られたり縛ったりするが、それらの束縛や立ち位置とかと、”血”とどちらが強いものなんだろうという問い掛けだ。
今のとても平和な時代に暮らす僕らにして見れば、遠い親戚は別にして、従兄弟ぐらいまでは絶対的な身内であり、理屈を越えた位置付けにある。親子の戦い、祖父と孫の戦いなんて想定外の話だ。まあ、争うほどには芯や主義主張が互いにあるわけではないと言ってしまったらそれまでなんだけれど。
歴代の源氏や平家の人々を一人一人を検証したわけではないが、源氏と平氏を較べると、どちらかと言うと源氏の人々の方が激しい気性で、”血”を分けた身内同士でも殺し合っている印象が強い。
源義仲(木曾義仲)の父親である源義賢は、甥の源義平(悪源太)に殺されるし、源義仲自体も、源頼朝の差し向けた源範頼、源義経に殺される。そして源義経も最後は源頼朝に追われる。時代は下り鎌倉時代に入っても、北条にそそのかされたとは言え、二代将軍 源頼家の息子の公暁は、叔父の3代将軍源実朝を暗殺した。言ったら怒られるが、平氏に較べ源氏には乱暴者も多い。それが源氏の男系の”血”の突発事故なのか、その時々で交じる女系の”血”のなせる技なのか分からない。
源為義の父親の源義親は、大変な暴れん坊で九州で略奪を働き隠岐に流されたが、隠岐から抜け出し出雲に渡ってまた暴れ官吏を殺した。源頼義 - 源義家が築いて来た源氏の勢力は彼のせいで一時衰退した。
前述の源為朝は父親には従順だったが、鎮西八郎として九州で大暴れしたし、保元の乱の後に伊豆に流されて、また大暴れした。
平氏からも気性の激しい人々は出ているが、乱暴者の部類の人はいない気がする。また、身内での殺し合いはなかったようだ。平家の出自である伊勢平氏ではなく、
平良文流の坂東平氏の流れに三浦一族、和田一族がいる。一族滅亡という悲劇に遭うのだが、一族内の結束は固かった。
と、ここまで書いて来て、そんなこんなも含めて、やっぱり”血”だろ、”血”のなせる技だろうと思ったりするのだけれど、よくよく考えてみるに、人はお父さんとお母さんから生まれるから、一世代下るごとに”血”は半分に薄まる。孫ぐらいまでは一定の形質を保つだろうが、10世代も20世代も下ると、源氏も平氏も関係ないんじゃないのと思えて来る。10世代ということは2の10乗だから”血”は1024分の1に薄まるし、20世代だと2の20乗だから、”血”はほぼ百万分の1まで薄まってしまう。よっぽどの形質の先祖返りでもない限り、10世代前の誰誰にそっくりとか、再来とかははないということになる。
もちろん、これは遺伝子のフリー・フォールと言うか、異なる遺伝子同士が自由に結合し分化した場合の話で、限られた地域で暮らして来た人々の場合には、分化した遺伝子が再び圧縮されることもあったのだろう。
さてさて、10世代、20世代後と”血”は薄まって行くが、歴史の時々で必死で生きた人々は、そんな時間軸では生きておらず、やはり脅迫観念のように敵の”血”を怖れて、子供や孫まで執拗に殺したんだろうね。
例外的に、平治の乱の後、平清盛は源頼朝を殺さずに伊豆に流した。これを清盛の大失策という人もいる。一方、助けられた頼朝は執拗に平家狩りを行った。平家、というよりは平清盛の血筋や縁の者を根絶やしにしようとしたわけだ。
この追っ手というのはかなりしつこかったらしく、山里に逃げ込んだ落人まで追い掛けたと言われる。今でも全国に追っ手から逃げ切った平家の落人部落があるらしいけれど、不思議なのは平家の一門なら分かるけれど、郎党や家人(けにん)までなんで一緒に逃げ隠れするんだろうと、現代の感覚だと思ってしまう。現代ならユニフォームを脱ぐように、今日から平家方辞めた、お暇しますで済むのだろうが、当時の常識では最後まで主人に従ったし、簡単に旗を降ろさなかったのだろうね。これは”血”とは関係のない、人間の想いの部分だ。
今年も日本全国色々な場所に行ってみるけれど、一つのテーマとしてそれぞれの土地の平家の落人部落と呼ばれている場所に立ち寄ってみたいと思っている。
WIKIで全国の平家の落人部落とか、平家の里とかを調べてみた。清盛の息子や孫達は段の裏でほとんど死んだはずだから、こんなにたくさんの平家の里に、そうそう清盛の末裔が住んでいたとは思えないのだけれど。
平清盛の息子達は、重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡、知度、清房の七人だ。そして重盛には維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実 という息子達がいた。そして維盛には高清、資盛には覚盛という息子がいた。また、基盛の子が行盛で、宗盛の子が清宗、能宗、宗親であり、知盛の子が知章、知忠、知宗だ。
また、清盛の異母弟に、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度らがいる。
因みに平家の男系はほとんど途絶えたと思われるが、女系で言えば清盛の”血”は天皇家に引き継がれたらしい。清盛には安徳天皇を生んだ徳子以外に佑姫という娘がいたが、この佑姫は藤原隆房と結婚して、二人の間に生まれたのが藤原隆衡だ。そして隆衡の娘が北山の准后と呼ばれることとなる藤原貞子だ。貞子は西園寺家の藤原実氏と結婚し、そして実氏と貞子の間に産まれた娘、(女吉)子は後嵯峨天皇の後宮に入って中宮となり、後深草天皇と亀山天皇の母となった。
これは平敦盛、平家一門ではあるが清盛の子ではなく平経盛の子だ。