愛車 FZ1とDYNA LOW RIDERで過ごす週末を
おやじが綴る日記です


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三浦半島が育んだもの / 2011年01月27日(木)
三浦大根の話をしようとしているのではない。

久々に歴史の話でも書こうかなと思ったら、先週末に走り回った三浦半島のことを思い出した。今日は、三浦半島の地で興亡した三浦氏一族の歴史など纏めてみようか。




三浦半島 剱崎沖は釣り船で賑わう。とても長閑な風景だ。それにしても三浦半島から眺めると房総半島はあまりに近い。

穏やかな景色を楽しみながら、この江戸湾(東京湾)を挟んで行われた、戦国時代末期の後北条氏と安房里見氏との戦いに想いを馳せていた。16世紀後半、中央では信長や秀吉が出て天下統一を懸けての戦いを行っていたが、関東では江戸湾を挟んで西の後北条氏と東の安房里見氏が執拗な局地戦を繰り広げていた。徳川家康の天下統一まで後30年足らずの頃だ。

歴史を俯瞰出来る後世の人間は局地戦などと言えるが、戦っている当事者同士は真剣そのものだっただろう。それにしても、後北条氏も安房里見氏も相手側に攻撃を加えるだけでなく、航行中の船を拿捕したり、両半島沿岸の村を襲撃し人や物を略奪していたから、あまり名目のある戦いとは言えない。当時江戸湾を往来する船は後北条氏、安房里見氏の両方に半手(年貢を半分づづ払う)をして航海の安全を図っていた。

三浦半島・房総半島の交易が容易になったのは、1574年に後北条氏の水軍が安房里見氏の水軍を破り江戸湾の制海権を握った後、1577年にようやく安房里見氏が後北条氏との講和に応じてからだ。本能寺の変が起きる数年前だ。

豊臣秀吉の小田原城攻め、そして徳川家康の天下統一と、歴史の大きなうねりはこのすぐ後に三浦半島にもやって来るが、ともかくも16世紀末の時点までの100年弱は、三浦半島は後北条氏の支配地であった。

元々中世以来この三浦半島の地は坂東八平氏の一つの名族、三浦氏が治めていたが、伊豆国を支配していた伊勢新九郎盛時(北条早雲、後北条氏の祖)が、1495年に扇谷上杉氏から小田原城を奪取し相模国にも勢力を拡げ出した。この当時、扇谷上杉氏方にあった三浦一族は北条早雲に滅ぼされてしまい、その後、三浦半島の地は後北条の支配地となった。

この三浦氏一族の興亡について纏めてみた。(と言っても引用だらけなんだけれど。) 三浦氏一族は宗家を二度北条氏に滅ぼされている。といっても最初の北条氏は鎌倉幕府執権の北条氏であり、二度目の北条氏は北条早雲を祖とするまったく別の北条氏、後北条氏だ。

さて、三浦半島と三浦氏、地名と氏とどちらが先かと言うと、もちろん地名だ。
三浦は古代には”御浦”と書かれた。「日本書紀」の相模国の記述にある。大和から坂東に至る古道が足柄峠を越えて相模国を横切り、三浦半島から海の道を通って、総(上総・下総)国に至る。重要な湊のある場所として朝廷がこの地を重要視したから、御浦と呼ばれたという説がある。”御浦”が三浦に変化したのは、東西南北のうち三方向を浦に囲まれていたからだと言う説が有力だ。


1. 三浦泰村まで

三浦氏の出自は先に触れたように、桓武平氏良文流の家系 坂東八平氏の一つと言われているが、三浦氏は古代から三浦半島に勢力を持った在地の豪族で平姓は僭称だと主張する学者もいる。「源平闘諍録」では、平将門の乱で常陸国の信太島に配流された良文の子の駿河守忠光が、三浦の豪族である三浦青雲介の婿となり三浦氏が始まったとされる。

平良文 -二代 - 平(三浦)忠通 - 三浦為通 - 三浦為継 - 三浦義継 - 三浦義明 - 三浦義澄 - 三浦義村 - 三浦泰村

三浦義明 - 杉本義宗 - 和田義盛 - 和田義直
 
和田義盛は三浦義村の従兄弟だが、相模国三浦郡和田の里に所領があったことから和田を称した。和田氏からは更に朝比奈義秀が出ている。

忠通の子の為通前九年の役で活躍し、源頼義から相模国三浦の領地をあらためて安堵される。 三浦氏の動向が歴史上明らかになるのは、為通の息子の為継からだ。為継後三年の役に従事して武勲を立て、以後の三浦氏発展の礎を築いた。三浦氏は平安時代、相模国の有力な在庁官人として「三浦介」を称し、相模国東半分と安房に勢力を振るった。

三浦義明・義澄保元の乱・平治の乱で源義朝に従う。平治の乱で義朝は敗れたが、三浦氏一族は戦線離脱に成功し京都から落ち延びて帰国する。その後、三浦で雌伏する一方、源頼朝の配所を訪ねるなど源氏との繋がりに余念がなかった。

そして1180年、源頼朝に呼応して三浦氏一族は挙兵する。源頼朝の挙兵後の三浦氏の動きはこんな感じだ。

治承4年8月22日、三浦氏は伊豆国で平氏打倒をめざして挙兵をした源頼朝に味方することを決め、頼朝と合流すべく三浦義澄は500余騎を率いて本拠の三浦半島を出立した。支族の和田義盛・義茂兄弟もこの軍勢に加わっている。
しかし、三浦勢が酒匂川で大雨の増水の為渡河出来ずにいたところ、23日夜、石橋山の戦いで頼朝軍は平家方の大庭景親に撃破されてしまった。

敗れた頼朝は行方知れずになり、やむなく三浦勢は三浦半島へ戻るが、帰途の鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇して合戦となった。武勇にはやる和田義盛が畠山重忠の陣の前で名乗りをあげて挑発し合戦になりかかるが、双方には縁者も多くなんとか和平となった。しかし、その事情を知らない弟の和田義茂が畠山勢の陣に突入してしまい、ついに合戦になってしまった。双方、戦死者を出して兵を退いた。これは小坪合戦と呼ばれる。

26日、畠山重忠は他の平家方と合流し、数千騎で三浦氏の本拠地 衣笠城を襲った。和田義盛は西の木戸口を守るが、三浦氏一族は、先の小坪合戦で疲労困憊しており、やむなく城を捨てて海上へ逃れた。この際に89歳の老齢の三浦義明(三浦義村・和田義盛の祖父)は「今、この老いた命を武衛(頼朝)に捧げて子孫の繁栄をはからん」と言い、一人 衣笠城に残って奮戦したが、討ち死にした。これは衣笠城合戦と呼ばれる。


その後、石橋山の戦いで敗れた頼朝を安房に逃したのも三浦氏一族の功績と言われる。

三浦義澄和田義盛ら三浦氏一族は海上で北条時政(頼朝の舅)らと合流し、29日に安房国平北郡猟島で頼朝を迎えた。「平家物語」によれば、この時和田義盛は「父が死に、子孫が死んでも、頼朝公のお姿を見ればこれに過ぎる悦びはない。どうか本懐を遂げて天下をお取りください。その暁には私を侍所の別当に任じてください。上総介だった藤原忠清が平家から八カ国の侍所別当に任じられ、その威勢をうらやましく思い。いつか自分もと八幡大菩薩に祈願いたしたのです」と願った。

9月、安房に集結した頼朝方の勢力は再挙兵を図り、各地の武士に参陣を命じた。その内でも有力な千葉常胤には安達盛長が、上総広常には和田義盛が使者となった。常胤は直ちに挙兵して頼朝を迎えたが、上総広常はなかなか応じなかった。頼朝が安房を発し、房総半島を北上して千葉氏の軍勢を加えて隅田川に達したとき、上総広常は2万騎の大軍を率いて参じた。上総広常は頼朝の器量しだいではこれを討ち取るつもりだったが、頼朝の威厳に打たれて心服したという。

10月、由比ヶ浜で戦った畠山重忠を含め東国武士が続々と参じ、数万騎の大軍となって頼朝は源氏ゆかりの地である鎌倉に入った。10月20日、駿河国富士川の戦いで平維盛率いる平家軍を撃破した。


この勝利の後、源頼朝は坂東の固めに入り、11月に常陸国の佐竹氏を討ち、和田義盛と上総広常は佐竹秀義を生け捕りにした。頼朝は11月17日に鎌倉へ凱旋し、そこで坂東統治のための諸機関を設置した。和田義盛は安房での願い通りに侍所別当に任じられた。12月、鎌倉大倉の地に頼朝の御所が完成し、その入御の儀式に際し、和田義盛は居並ぶ御家人の最前列に立った。

一方、三浦義澄は源頼朝が幕府を開くと千葉常胤・上総広常・土肥実平らとともに頼朝の宿老となった。その後も三浦氏は頼朝に従い平氏追討・奥州合戦に参戦し武功を挙げる。頼朝の死後は十三人の合議制のメンバーに三浦義澄・和田義盛が入るなど、鎌倉幕府内で大きな権力を持つに至った。

と、ここまではいいこと尽くしのサクセスストーリーだ。

しかし、この後北条氏による他氏排斥運動が起こり、和田義盛は1213年の和田合戦で滅ぼされた。和田合戦後も、三浦氏本家は義村が評定衆に選出されるなど変わらず権力を維持していたが、1247年の宝治合戦で北条氏に滅亡させられた。

和田合戦の経緯はこんな風だ。

1213年2月、和田義盛が上総国伊北荘に出掛けて鎌倉を留守にしている時、源頼家の遺児を擁立して北条氏を打倒しようとする泉親衡の陰謀が露見した。関係者の自白から和田義盛の子の義直、義重、甥の胤長の関与が明らかにされた。鎌倉に戻った義盛は実朝に子息や甥の赦免を願い出て、義直、義重は許されるが、甥の胤長のみは張本人であるとして許されなかった。助命嘆願に訪れた和田一族90人が控える将軍御所の南庭で胤長は縄で縛られて引き立てられ、和田氏一族は大きな恥辱を受けた。

胤長は陸奥国へ配流となり、鎌倉の屋敷は没収された。義盛は罪人の屋敷は一族に下げ渡される慣わしであるとして自分に賜るよう求めた。この願いは聞き届けられるが、そのすぐ後に北条義時は乱の平定に手柄のあった別の御家人に胤長旧邸を下げ渡してしまった。重ね重ねのこの北条義時の挑発に対して、義盛は横山党や反北条派を誘い挙兵を決意する。鎌倉では流言飛語が飛び、騒然とした。4月27日、憂慮した実朝は使者を義盛の邸へ送った。使者に対して、義盛は「上(実朝)には全く恨みはございません。相州(義時)のあまりに傍若無人について仔細を訊ねるべく発向しようとしているだけです」と答えた。挙兵に際して最も頼りにしたのが、本家に当たる三浦氏の当主三浦義村だった。義村は挙兵への同心を約束し起請文まで書いた。だが、義村は弟の胤義と相談した後、変心して義盛謀反を北条義時に通報する。

5月2日、義盛は一族とともに挙兵し鎌倉で激しい市街戦が展開された。武勇で知られる和田氏一族は奮戦し、中でも三男・朝比奈義秀は最もめざましく戦った。だが、義時方には新手が次々に到着し、夜までに和田氏一族も疲れ、由比ヶ浜へ後退して援軍を待った。翌3日朝、横山党が到着し、その他の味方も到着して再び勢いを盛り返した。和田方が意外な大軍になりつつあるのを恐れた義時と大江広元は将軍実朝の名で御教書を発する。これには多くの御家人が応じ、実朝の命を受けた幕府軍は大軍となって押し返した。夕刻までに和田氏一族は次々と討たれ、そのうち愛息義直も討ち死にし、老いた義盛は声をあげて悲嘆号泣した。そこへ江戸義範の郎党が襲いかかり遂に討ち取られた。享年67歳だった。

子の義重、義信、秀盛は討ち死にするが、朝比奈義秀は戦場を脱して落ち延びた。「愚管抄」は「義盛左衛門と云う三浦の長者、義時を深く嫉みて討たんとの志ありけり」と記しており、京都では三浦義澄死後の三浦氏一族の族長は和田義盛だと見ていたと思われる。


合戦後、固瀬川(境川)に梟された和田氏一族の首級は234に上った。

北条義時は山内荘、美作守護を手に入れ、大江広元は武蔵国横山荘を与えられた。義時は義盛に代わり侍所別当を兼任し、それまで兼任していた政所別当と併せて幕府の実権を掌握し、執権体制の確立に努めた。事件の発端となった泉親衡の陰謀事件の逮捕者のうち和田氏一族以外は直後に釈放されており、北条義時の挑発による事件であったとも言われる。

和田氏一族は追及処罰されてほぼ滅亡した。義盛の孫の朝盛は生き残り、承久の乱で宮方として戦っている。 また義盛の弟で、越後奥山荘地頭の和田義茂は北条方に味方し、その子孫は揚北衆の中条氏や黒川氏へと至る。

鎌倉では八幡宮三の鳥居近くの小町通り側、現在の鎌倉彫椿堂の辺りに邸宅があった。和田義盛が戦死した由比ヶ浜には現在でも和田塚という地名が残っている。





そして、宝治合戦の経緯はこんな風だ。

1242年、合議制によって幕府を主導し有力御家人の間を調整してきた3代執権北条泰時が死去し、その孫の北条経時が跡を継いだ。
北条得宗家主導の政治に不満を募らせていた鎌倉の御家人達は、泰時時代には幼少だった将軍藤原頼経が成人すると、その下に集って北条執権体制への反対勢力を形成した。

鎌倉幕閣は北条執権派と将軍派に分裂して対立を続け、寛元4年(1246年)、経時の病死と同時に宮騒動が勃発し、急遽 5代執権となった経時の弟の北条時頼により前将軍頼経が京都へ送還され、将軍派であった御家人達が処分された。この騒動の際、三浦氏は将軍派の背後にいながらも動かず処分を受ける事はなかったが、頼経の送還は大きな打撃であった。

三浦氏は、有力御家人が次々と排斥されていった中で生き残った、北条氏に比肩しうる唯一の勢力であり、北条得宗家とは縁戚関係を結びながらも、常に緊張関係にあった。三浦氏当主三浦泰村は北条氏への反抗の意志はなかったが、弟の三浦光村は反北条の強硬派であり、前将軍頼経の京都送還に同行し、頼経の前で「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語り、その様子は北条時頼に報告されていた。

執権北条時頼は宮騒動によって1246年7月に前将軍頼経を京都に送還した後、10月に頼経の父で将軍派の背後にいた九条道家の関東申次職を罷免し、代わって西園寺実氏を任命する。道家の後ろ盾を失った将軍復権派はもはや実力行使しか手は残されておらず、三浦光村は鎌倉に帰着すると反北条の勢力を集結すべく動いた。

宝治元年(1247年)になると、鎌倉に不穏な噂が流れ始める。1月29日には羽蟻の大群が鎌倉を埋め尽くし、30日には北条時盛の館の上空を得体の知れない「光る物体」が飛行している。3月になると怪異は更に頻発するようになり、11日「由比ヶ浜の潮が赤く血のように染まった」、12日「大流星が東北より西南に流れた」、16日深夜、鎌倉中が騒動となるが、誤報と判明して夜明けと共に軍勢は解散した。17日には鎌倉中に黄蝶が乱れ飛び、4月になると津軽の海辺に「人間の死体のような大魚が」漂着した。黄蝶については平将門の乱や前九年の役の直前にも飛び交う現象があり、大魚については奥州合戦や源頼家失脚の直前にもやはり漂着していることから、それぞれ「兵革」の予兆とされ、北条氏と三浦氏の対立が深まる中、流言飛語が乱れ飛んだ。鎌倉中が異常心理に陥る中、打倒三浦氏の強硬派である安達景盛が25年ぶりに高野山を下りて鎌倉へ戻ってきた。4月11日、景盛は外孫である執権時頼の邸に参上し、長時間話し込んで時頼に三浦攻撃を説いたものと見られる。景盛は三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛を激しく叱責した。

幕府は数々の怪異は後鳥羽上皇の怨霊が引き起こしたものとして、鶴岡八幡宮の山嶺に怨霊を鎮める御霊社を建立する事で事態の収拾を図った。5月6日、時頼は三浦泰村の次男駒石丸を養子に迎えた。5月13日には将軍頼嗣の正室となっていた檜皮姫が病没し、時頼は服喪のために三浦泰村邸に滞在して三浦氏への敵意が無い事を示し、合戦を回避すべく務めていた。泰村も緊迫した状況の中、合戦の回避を望んでいたが、強硬派の弟光村によって和平の道は阻まれた。

5月21日、鶴岡八幡宮の社頭に「三浦泰村は将軍家の命に背いて勝手な事を繰り返しているので、近いうちに討伐されるだろう」という趣旨の高札が立てられた。事態の収束を良しとしない安達氏の行動と推測される。5月27日、服喪のために泰村邸に逗留していた時頼は、館内で合戦の準備を始める音を聞いて本宅に戻った。翌日、調査の結果三浦光村が安房や上総の所領から武具を取りそろえているとの報告があった。6月1日、時頼は泰村邸に佐々木氏信を派遣した。泰村は羨望や讒訴によってあらぬ噂を流され迷惑していると答えた。佐々木氏信は館内に武具が揃えられていたと報告した。

鎌倉に軍勢が集結して厳戒態勢となる中、6月5日、時頼は腹心平盛綱を泰村邸に遣わし、和平の義を成立させた。事態は一転和平の途を辿るかに見えたが、その事を知った安達景盛は、三浦氏と雌雄を決するべく泰盛を先陣として一族に出撃を命じた。平盛綱が和議をまとめ、三浦の館に赴くのを出し抜いて、武装した安達の軍勢が館から出撃し、若宮大路を突っ切って鶴岡八幡宮に突入し、境内を斜めに駆け抜けて泰村の館を強襲した。奇襲を受けた泰村は仰天し舘に立て籠もって迎撃の構えを取った。合戦が始まると御家人達が続々と両陣営に駆けつけ始めて鎌倉に密集し、趨勢は混乱を極めた。三浦方には妹婿の毛利季光、関政泰、春日部実景、宇都宮時綱ら縁戚と将軍派の御家人達が集まった。

合戦に引きずり込まれる形になった時頼は、北条実時に将軍御所の守護を命じ、弟の北条時定を大将軍に任じて三浦泰村の討伐を命じた。三浦舘には鎌倉にいた三浦氏一族、前将軍頼経を慕う御家人達が集まり、三浦半島からも一族が駆けつけた。三浦光村は80騎を率いて永福寺に籠もり、鎌倉と得宗家の本拠地山内荘を分断した。

三浦泰村館への攻撃は明け方に始められたが、昼になっても北条勢は攻めあぐねていた。風向きが変わったところで周辺の舘に火がかけられ、燻り出された泰村達は舘を出て法華堂に向かった。光村は泰村に使者を使わして要害の地である永福寺での合流を勧めたが、泰村はすでに戦う意志はなく、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして光村に法華堂へ来るように命じた。やむなく光村は数町に及ぶ敵陣の中を強行突破して法華堂へ向かった。法華堂には三浦氏一族とその縁戚、将軍派であった御家人達500余名が集まっていた。その内260名は将軍御所に出仕する資格を持った番衆であったという。

源頼朝の御影の前で一同はしばし懐旧の談を交わした。光村は「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだ。光村は太刀を抜くと自分の顔を削って「この顔は我とわかるか?」と訪ね、「いまだに光村殿と見ゆ」と返事を聞くとさらに自分の顔を切り刻み、あまりの事に泰村は「汝の血で故頼朝公の御影を汚し奉る。不忠至極である」と諫めた。血気の光村に対し、最期まで穏便であった泰村は「当家数代の功を思えば、累代は赦されるだろう。我らは義明以来四代の家督なり。北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。しかしすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と涙で声を震わせたという。三浦氏一族と与党500余名はそれぞれに自刃して果てた。上総国にあった泰村の妹婿千葉秀胤は追討軍と戦って敗れ、一族と共に自害した。


25日には残された三浦氏一族の妻子が鎌倉を追放された。この時死んだ三浦氏一族の墓所は、頼朝法華堂東方の山腹にある。




満昌寺にある先祖の三浦義明の立派な墓に較べると、この三浦泰村一族のやぐらの墓はとても寂しい。





宝治合戦は双方の和平派と強硬派のせめぎ合いの中、北条側の強硬派によって開戦となり、兄経時の死によって急遽執権になった20歳の時頼は迷いながらも現実に対峙した。精強で知られた三浦武士団の総領泰村は、一族を押さえきれず弟光村が取り仕切っており、最後まで総領泰村の決起はないまま一族は滅亡した。

幕府創設以来の名族 三浦氏の滅亡により将軍側近勢力は一掃され、合議制の執権政治は終わりを告げ、北条得宗家による専制体制が確立した。


2. 三浦義同まで

三浦宗家は滅びたが、その後三浦氏は傍流の佐原氏の三浦盛時により再興された。盛時宝治合戦前には既に時頼に懐柔されていたらしく、以降の三浦氏は御内人となって幕府内で活躍した。と言っても執権北条氏の家来でしかなかった。


三浦義明 - 義連 - 盛連 - 盛時 - 頼盛 - 時明 - 時継 - 高継 - 高通 - 高連 - 高明 - 時高 - 高救 - 義同

しかし、その後足利尊氏が鎌倉幕府に対し兵を挙げると、時の三浦氏当主三浦時継は足利方について戦う。鎌倉幕府が滅び、建武政権が成立した後は、時継は相模国・武蔵国などの地頭となった。

その後の南北朝の分裂以後、関東では地域を二分する争いがたびたび起こるが、三浦氏は巧妙に立ちまわり、家名を保ちやがて相模国の守護となる。

だが、三浦高明の代に上杉禅秀の乱に加担した事を理由に守護職を奪われて新しく守護となった扇谷上杉家の勢力下に入った。


1512年北条早雲は、扇谷上杉氏氏方で相模国における最大勢力であった三浦義同岡崎城を急襲しこれを奪取した。三浦義同・義意父子岡崎城から逃れ住吉城に立て籠るがこれも陥とされ、義同らは新井城三崎城に立て籠った。
早雲はこれを力攻めでは陥とすことができないと考え、翌1513年10月に新井城に対する糧道遮断と北方からの上杉勢の援軍を断つために三浦半島の付け根に玉縄城を築き、次男の氏時を城主に任じた。1516年、扇谷上杉朝興は三浦義同救援のために派兵したが、早雲は新井城の押さえに二千騎を残し、玉縄城北方に四、五千騎を陣取らせて上杉朝興に対峙させた。この結果、上杉氏は新井城の三浦義同・義意父子の救援に失敗し新井城は陥落、三浦氏は滅亡し相模一国は後北条氏の手中に落ちた。


三浦氏滅亡時に因縁の深い土地がある。

城ヶ島
三崎城が落城した時、亀崎、鈴木、下里、三富、出口を名乗る者を中心とする残党が城ヶ島に立て篭もって抵抗した。彼らは三崎の船を全て城ヶ島に持ち去ったため、責めあぐねた早雲は建長寺、円覚寺の両和尚に調停を頼んでようやく講和したという。この残党は「三崎十人衆」と呼ばれ、後北条氏の下で里見水軍の侵攻をよく防いだとされる。彼らの苗字は現在も三崎に残っている。 後北条氏の支配下では、梶原景宗率いる北条水軍が房総半島の安房里見氏と対峙した。里見水軍はしばしば城ヶ島周辺を来襲していたが、1562年に城ヶ島に上陸すると、後北条軍は三崎城に陣を構えて海戦となった。現在、島にこれらの遺構は残っていないが、城ヶ島から三崎を望んだ際に見える高台が三崎城跡である。


油壺
新井城に籠もった三浦氏一族は北条早雲の大軍を相手に3年間にわたって奮戦するも、三浦義同を始め将兵は討死に、残る者は油壺湾へ投身し、湾一面が血汐で染まりまるで油を流したような状態になったので後世「油壺」と言われるようになったとされる。



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