家で一日中のんびりしていたら元気になった。夕飯もしっかり食べた。酒は今晩は飲まなかった。更に元気になった。
やっぱり人の身体をしっかりと支えるのは、充分な睡眠と食べ物だ。
徒然に食べ物のことなどを考えている。
ファーストフードへの警鐘として、スローフードなんて言葉が20年前位に出来て、この10年位で定着した感があるんだけれど、この間イタリアの友人とスパゲティはスローフードかファーストフードかという話になって、笑った。どっちだろうね。
僕が小学生の頃、祖母はまだ生きていた。(”あき”ばあちゃんと言った。祖父は”おあき”と呼んでいた。) おふくろに遠慮して普段は台所に入らなかったんだけれど、何か特定の食べ物を作る時になると突然活躍し出した。それをおふくろが歓迎していたかどうかははっきりとは覚えていないが、あまり良いムードではなかった気もしている。
でも、おはぎなんかは仲良く二人で作っていた気もする。
「あの子は本当に心の優しい子だよ。」と何時も僕のことをひとさまに間違って伝えていたが、自然薯でとろろを作る時には、なぜか当然のように僕を巻き込んだ。このとろろのダシを作るのが物凄く凝っていて、鰹節を削って短冊状に切ったニンジンと一緒に沸騰しないように丁寧に煮込んでいた。そして自然薯とゆっくり混ぜ合わせた。あれ、僕は何を手伝っていたんだろう、すり鉢を支えていただけかな?
鰯のつみれを作る時は、確か鰯の身をすりこぎ棒で丁寧に潰しながら、何かでといだ味噌を少しずつ加えて行った。すり鉢を支えてる為座ったあの板の間の感触って今も覚えている。
おふくろの故郷でも、今思えばあれがスローフードなんだなと思うものに出合った。あまり同じ話を繰り返したくないけれど、
僕は子供の頃身体がとても弱くて、毎年夏休みは始まるとすぐ宅急便のノリで母親の実家に送り込まれた。 水戸の手前の石岡という場所がおふくろの故郷だ。おふくろのあの気の強い性格は水戸者の典型だろう。そう言えば気丈で働き者のおふくろが、田舎の祖母の前に出ると朝寝坊の甘ったれになったのを、とても不思議な気持で眺めたものだった。
夏休み中のある午後、”さた”ばあちゃんと、遊びに来ていたいとこのみっちゃんが顔を見合わせて、突然”落花生の味噌煮”が食べたいねと言い出した。二人は落花生の皮むきを始めた。その後、僕は外に遊びに行き、夕方泥だらけになって帰って来たが、二人は鍋の中にある最終段階の落花生の味噌煮を注意深く見ていた。「ええ、ずっと作業していたの?」 「そうよ、なんで?」 僕は二人の気迫に後退りした。
あれは究極のスローフードだったよな。
この間、威海の火鍋屋に入ったら店内にこんな額が掲げてあった。
左から読むと立派な意味になりそうだけれど、右から「民以食為天」って読む。民は食を以て天と為す。
文字通り、庶民たちは食べることを天(第一優先)としているという意味だ。まあ、人はパンのみに生きるにあらずという言葉と対照的に聞こえるけど、両方とも中途半端に抜粋するから変な比較になる。
聖書の「人はパンのみに生きるのあらず」には続きがあって、”人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。”で完結した意味になる。でも、食べることの大事さを認めているわけだ。(誰だよ、パンにもでなくご飯や麺でも生きるなんて古い冗談をいう奴は?)
漢書の「民以食為天」も、この前に大事な言葉がある。「王以民為天」 王は民を以て天(第一優先)と為すという言葉だ。