昨日はかなり落ちる記事を書いてしまったので反省しています。今日は『ちい散歩』風に参りましょう。いつもよりも長く、ややシリアスな場面もございますがご辛抱を。
今朝、散歩がてらに江東橋の生家や子供の頃から親しんできた風景をパチリとやってきました。
ココは実家があった路地で、幼少の頃の遊び場でした。ちょうど、画面左手に白いブロック塀が見えますね。江東橋の生家は当時、材木問屋を営んでおりました。このブロック塀のあたりが店の正面玄関のあった場所。そこから手前に下がると来客用の玄関があり、左に曲がると勝手口……。なんとなく過去の記憶が蘇ります。
路地のドンつきに見えるベージュの建物は玩具問屋で小学、中学時代はオモチャの問屋なので“トンチャ屋”と仲間内で勝手に呼んでいました。どうやら今も元気な子供たちの集いの場となっているようで、ちょっと安心。
材木問屋が軒を重ねていた界隈ですから、製材所というものがありました。ココはそのなかでも規模が大きく、毎日川から巨大な原木を運んで、これまた巨大な電動ノコギリでそれを一刀両断にするわけです。よく学校の帰り際に、その「ンガーッ」とけたたましい音を立てて原木を切るノコギリの動作を何時間も眺めておりました。
今では機械系の会社が入っているようですが、製材所が閉鎖された後にクマさんこと、ゲージツ家の篠原勝之さんがアトリエとして使っていました。材木屋だけでなく鉄板加工所や鉄屑回収業者も多かった町なので、材料集めに最適だったのでしょう。白いツナギに酸素バーナーをもち、作品づくりに勤しむクマさんの姿を何度か拝見しました。
生家からほど近い場所に『栄福』という老舗の中華料理屋があります。土地勘のある方なら分かると思いますがJR錦糸町駅から丸井の裏口へ抜け、そこから首都高をくぐるとあります。
ココに来たら“ジャリチ(薄切りにした豚肉を衣に包み揚げたもの)”、“ヒリュウタンメン(とろみのあるスープにニラを混ぜたラーメン。麺は細麺と太い手もみ麺が選べますが、迷わず後者で決定)”、あるいは“レバニラ(ヒリュウタンメンに似た味。レバーはもちろん香ばしく焼いています)”、“餃子(ニラたっぷり。精力つきそう)”をご注文くださいませ。絶品です。小学生の頃からこの3品以外は食べた記憶がありません。
さて、下町のおやつといえばもんじゃ焼きでしょう。今でこそ月島なんかはもんじゃタウンとか呼ばれ、1品1000円弱もする洒落たグルメメニューとして、もてはやされていますが、本来は1品300円程度の駄菓子の類です。
かくいうワタクシも中学時代は学校が終わると、毎日仲間と入り浸ったものです。『ベビースターラーメン』のパチモン『ラメック』を2袋と醤油、味の素でテキトーにかき混ぜて焼きながら、クラスで誰が好きか、なんてくだらない話で盛り上がったもんです。
その店がまだありました。店名は当時『みゆき』だったと記憶してますが、イメチェンでしょうか。名前が変わっていました。今でも「もんじゃといえば君だろ」とか祭り上げられ、手際よく焼くと「さすが下町育ち!」なんて言われます。バーベキューでは辛酸を舐めさせられましたが、もんじゃ屋ではヒーローです。ナイショですが、実は誰が作っても美味いんですヨ。
なぜ材木関係の商店が多いかと申しますと、隅田川の分流である大横川、さらにその分流が縦横無尽に流れているためです。今では生活物資を運ぶルートとしては完全にその機能を失っています。子供の頃はこの川を、原木を沢山束ねてボートで運ぶ風景が当たり前のようにありました。親からは、子供の頃は泳げたとも、戦時中の東京大空襲では水面に累々たる死体が浮いていたとも聞いています。
船が行き来する川ですから造船職人もいました。小学校の1年後輩の家がそうです。江戸時代から続いた職人の家で、この『新川名橋跡』はその跡地。大横川からこの家の下まで川を引いてあり、造った船をここに浮かべるという寸法です。ちょうど左手の駐車場がその場所でした。
ココは生家から少し離れていますが、自身の実体験を映画化した『うしろの正面だあれ』の著書や、林家正蔵さん(旧こぶ平)のお母さんとして知られる海老名香葉子さんの通っていた『中和小学校』です。ワタクシの母もこの小学校へ通っていました。この界隈は東京大空襲でもっとも被害の大きかったことでも知られています。
ココではありませんがワタクシの母校の旧校舎を取り壊した跡から、恐らく焼夷弾による火災の熱で溶けてしまったのであろう、グニャグニャにひしゃげたガラス瓶や、茶碗の欠片などを沢山見つけました。戦争は遥か昔の話じゃないってことをヒシヒシと感じさせました。
大空襲で焼け野原になった東京下町の写真を見ると、唯一残っているのは頑丈な土蔵とともに、鉄でできたこんな橋でした。川があれば橋があります。墨田区や江東区にはこんな鉄骨の橋がいくつもあります。この『新高橋』もそのひとつ。
その道をまっすぐ走ると『崎川橋』や
そこを右に曲がると『亀久橋』など、趣のある橋が多いのであります。灼熱地獄と化した昨日までの日常空間。熱さから逃げるように次々と川へ入る人々。それでも蒸し焼きのように焼かれ、死んでいった人々を見てきた橋……。これらの橋は戦後生まれのワタクシにとって、当時の生々しい体験を語ってくれるご老人と同じくらい貴重な生き証人的な存在なのす。
戦争の爪痕を色濃く残す町、すべてを失っても庶民的な下町然とした風情を受け継ぐ町。ワタクシはこんな悲喜こもごもを背負った町で30年間暮らしていました。今でも大好きです。
だから
素の自分を表現するときに『江東橋実』の名を使うワケなんです。
経っていますが、どんどん新しい店や
コインパーキングが増えていましたよ。
押上に新東京タワーができるとか
信じられませんね。
あの亀戸ですらエルナードではなく
ラスカか何かに変わってましたね〜