「週末、バイトが終わったら、海に行かないか?」
バイト仲間のMが、誘ってきたのは閉店の15分程前だった。
ヤツは、最近中古の
サニー・カルフォルニアを手に入れ、以前自慢げに店に乗りつけてきた。カーステレオから派手なオールディズ・
ミュージクを響かせていた。それは、モンキーズの曲・・・。
大学3年の夏ももう終わりに近かったが、毎夜熱帯夜が続いていた。来年は、就職活動で夏休みどころの話しではないだろう。俺は二つ返事で答えた。海に行くのも久しぶりのことだった。
コイツが言うには、知り合いの女の子3人からOKを貰っているとのこと。
「バランスを取って、もう一人誘ってくれ。」とのことだった。
車は5人乗りなので、もう一人と言うことになれば、俺はバイクで行くと告げた。
その時、俺の頭に浮かんだのは、アイツの顔だった。このことを話したら、アイツもバイクで行くかも知れないと思った。
店が終わり家に戻って電話したのが、12時近く。“そんな遅くに”と思うかもしれないが、いつものことだった。短い呼び出し音で、受話器を取ったのは、意外なことにアイツの父親だった。
「久しぶり・じゃ・・ないか。」
少しロレツの回らない口調で、親父は言った。
「どうだい、あのバイク、調子いいかい?」
必要以上に大きな声だった。この親父が営むバイク屋から、中古のバイクを買ったのは半年前のことだ。
「ええっ、ぜんぜん問題ないですよ。・・・今度オイル換えに行きますよ。」
「そうかい、そうかい。チョッと待ってな。」
受話器を置く音がして、アイツを呼ぶ声がした。階段をトントンと降りる音の後、無愛想なアイツの声が聞えた。俺は手短に用件を伝え、最後に「どうする? 行くか?」と言うと。
「ああっ、いいぜ。」と答えた。
俺は、少しホッとした。“
カリフォルニア野郎”は悪い男ではないが、幼馴染みの方が何かと安心だった。
「そうか、やっぱ、バイクで行くか?」
「ああっ、そうする。」
「一緒に走るは、久しぶりだな。」
「ああっ。」
意外にそっけない返事だった。
「じゃあ、土曜の10時、店の前で待ってるよ。」
「分かった。」
静かな口調だった。女がらみだと、もっとハシャグかと思ったが、そうでもないのか。
俺は、ゆっくりと受話器を置いた。
3日後、土曜の夜、俺は店の裏手からバイクを引っ張りだした。“
カリフォルニア野郎”は表通りに車を停めて、リア・ゲートから荷物を積んでいた。これから混雑を避け、夜の道を海まで走る。着いたら、夜明けまで海岸で寝るなりして過ごし、午前中海水浴を楽しんだ後、昼前には帰路につくというのが、Mのたてたプランだった。これならば、渋滞にはまることもない。もっとも俺とアイツはバイクなので、あまり関係ないが、暑い日中を少しでも走らないのはよい。いつの間にか女の子が3人、Mの傍に立っていて何やら話していた。すると、その3人が俺の方を見て、軽く会釈した。
初対面なので、どうということはないが“
カリフォルニア野郎”は、戻った後の“夜のプラン”まで考えているようだった。その中の一人が俺に話しかけて来た。小柄だったが、目鼻立ちがハッキリとした中々可愛らしい顔立ちで、腰まで届くロングヘアーが印象的だった。
「これっ、あなたのバイク?」
彼女は、俺のバイクを見て言った。
「ああっ、そうだよ。」
「Sの
GSX・・・。400ccもあるんだ。大きい。速そうね。」
エンブレムが目にとまったようだ。
「まずまずさ。・・・ところで皆、学生なのかい?」
「ええっ、私と彼女は短大。もう一人は働いてる。皆、高校の同級生なの。あなた学生?」
「大学の3年。でも1年ダブってるけどね。」
「いつ?」
「・・・1年の時。」
それを聞いて彼女は、「うそっ、珍しい」と言って、ケラケラと笑った。
聞き覚えのある集合マフラーの音が響いて、アイツのCBX(400F)がやってきた。俺の
GSXの横に停まると、アクセルを一度だけ軽く吹かしエンジンを切った。
「よおっ、早かったな。」
ヤツはフルフェイスのヘルメットを取ると無愛想な表情で、こちらを見た。
「・・・まあな。」
「・・・こんばんは、今日は、よろしくね。」
俺の隣にいた彼女は、そう言うと他の二人のところに戻って行った。長い髪がわずかになびいて、柑橘系の香りがした。
「おやおや、もう仲良くなったのか。」
「そんなんじゃないさ。むこうから話しかけて来たのさ。」
「なかなか可愛いじゃねえか。・・・でも俺の好みは、あのショート・カットの方だな。」
三人の女の子は、短めのキュロット・スカートにTシャツという皆同じような恰好をしていたが、髪型は違っていた。俺に話しかけてきたストレートのロングヘアーとヤツが “好みだ” と言ったショートボブの子、そしてもう一人は肩までの長さで軽くウェーブがかかっていた。背丈も同じくらいだが、ショートの子が他の二人よりいくぶん高かった。
俺とヤツとは、まだよちよち歩きの頃からの幼馴染み。小学校・中学までは一緒で、その頃より女には目が無かった。しかも良く“もてた”。ルックスが良いというより、話しが上手く話題が豊富だった。ヤツの親父やお袋のことも良く知っているが、父親に似ていると感じていた。
「ところでな。・・・俺、明日は、早目に帰るかもしれないから、よろしくな・・・。」
「どうした?・・・珍しいな。お前がそんな事を言うなんて。どっか具合でも悪いのか?」
俺は、少しちゃかすように言った。
「いやっ、・・・そんなんじゃないさ。」
視線が上を向いた。その先に半分欠けた明るい月が浮かんでいた。
それから11時前に走り出し、すぐに首都高にのった。環状線から
湾岸線に向かい、千葉方面に走った。さすがにこの時間の
湾岸線は、土曜の夜だというのに驚くほど車の数が少ない。
カリフォルニアが先行していたが、ほとんど直線の道なのに100km/hにも届いていなかった。俺とアイツのバイクは、交互に前後を入れ替えて、ジャレルような走りをしていた。時折
カリフォルニアに近づき、そしてまた離れる。夜風が心持ち涼しくなっていて、スピードを落とすのがイヤだった。黄色の車に近づき、シールド越しに室内を覗くと、女の子達はケラケラと笑っていた。カーステに合わせているのか、口をパクパクさせるMの間抜け面が可笑しかった。
真昼間なら渋滞がひどい穴川付近を通ったのが午前0時前。千葉東金道路に入ると更に交通量は少なくなり、周囲の景色は夜でもそれと分かる程、変わった。高速道を照らす外灯は減ったが、半分だけ欠けた月の光が以外にも明るかった。ジャンクションから終点の東金ICまで20分足らず。そこからしばらく一般道を走り、有料の東金九十九里道路に入った。ここも外灯は少なく、周りは田圃か畑なので、バイクのヘッドライトめがけて小さな虫が激突してくる。シールドに点々と潰れた虫がこびりついたが、気にせず走った。九十九里ICで降りると、すぐ信号待ちとなった。
前に停まった
カリフォルニアが右にウィンカーを出していたので、二台並んだ俺達も同じように右のウィンカーを点滅させた。
長い信号だった。アイドリングに交じって波の音がかすかに聞こえ、月明りの中、正面に大きく弓のように湾曲した不思議な形の建物が建っていた。
ようやく信号が青になり、右に折れてすぐの狭い川を渡り、片側一車線の道をそのまま真っすぐ走った。半月が思いのほか明るく、左手が海だということが、すぐに分かった。
3kmほど走ると、
カリフォルニアが左にウィンカーを出したので、そのままついて行った。左右に民家が迫る狭い道を200mも行くと、松林に囲まれた広い駐車場があり、車も二台のバイクも停まった。潮の香りが、フルフェイスのシールドに開けた隙間から入って、何となく心地よかった。
周りに停まっている車は数えるほどで、おそらく殆どが俺達のように夜明けを待っているのに違いなかった。
カリフォルニア野郎と女の子達は、そのまま駐車場に停めた車の中で寝ることになった。窓を全開にすれば、海風が入ってきて暑さもさほど感じないということだった。
俺とアイツはバイクを駐車場に残し、もっと海の近くで寝ることにした。リアに括り付けたブルーシートを持って歩くと、50mほどで松林を抜け、監視員用の高いやぐらとその先に月明かりに照らされた海が見えた。俺達は、やぐらの前にシートを広げた。
シートは、ごわごわと硬い感じだったが、寝転がると海風が心地よかった。強くも無く弱くも無く吹いて、昼間の暑さを忘れさせた。途中のコンビニで買ったビールをヤツと交互に飲んですぐにでも寝付こうと思ったが、なかなか寝れない。いつのまにか月は、水平線に近いところまで来ており、その分星が輝きを増していた。
俺は昨年の夏、二人で北海道に旅をしたことを思い出した。
夕方バイクをフェリーに積み、太平洋を北上した。船内は、日本全国からのツーリストで一杯だった。気持ちが高ぶっていたのか、その時も眠れず夜の甲板で夜空を眺めた。大型の船体が激しく波をかき分ける音と、低く唸るエンジンの響きが、暗い海に広がっていた。
月は無く、振るような星空だった。天の川が本当に白い流れのように見えた。それを取り囲む星々は、都会のそれより大きく、赤や青、白や黄色と色とりどりに輝き、暗闇の中にある彼方の水平線を丸く浮き上がらせていた。
もちろん、その時に比べれば圧倒的に少ないが、都会で見るよりも遥かに多くの星が目に飛び込んできた。周囲は静かだった、寄せては返す波の音が心地よく、時間が止まったかのような錯覚を感じた。
「起きてるか?」
隣から、小さな声が聞えた。
「ああっ、起きてるよ。」
「・・・そうか。」
「・・・どうした?」
「・・・いやっ、なんでもない・・・。」
ブールーシートがガサガサと音をたてた。隣で上半身を起こし、片膝を立てて座っている姿が消えそうな月明かりに照らされていた。
アイツは、ボソリと言った。
「俺、学校、辞めようと思っているんだ。」
「・・・なんだって?」
俺は、少し驚いた。
私立でマンモス校と言われる大学に通う俺と違い、コイツは国立大の理工系学部に通っていた。高校時は私立の有名校でも狙える偏差値だったと聞いている。そうだ、コイツ昔から頭が良かった。計算は得意で記憶力も抜群、試験の成績は常にトップだった。中学時代のクラスメイトは「そのうち、とてつもない発明・発見をするのでは」と、噂していたほどだった。しかし自身は、そんなことをひけらかすことは無く、あっけらかんとした明るい性格で、誰とでも気軽に付き合っていた。そして、バイクが好きだった。家業がバイク屋だから、当然と言えばそれまでだが、16(歳)になると
教習所に通い(当然、学校には無許可だったが)、二輪の中型免許を取って、いろいろなバイクに乗り始めた。
当時“高校生がバイクに乗る”ということは、まだ“不良”と同義語だったが、K社の有名な4気筒400ccモデルで始めて俺の家に来たときは、脳天がハンマーで打ちつけられたかのような衝撃だった。父親から借たと言った革ジャン姿は、随分と“大人”に見えた。俺が、バイクに興味を持ったのは、コイツのおかげだった。
1年遅れで、俺も免許を取った。高校生に高額なバイクを買う金はなかったので、ヤツの親父に頼み込んでH社のオフ・モデルを借りて、二人であちこち走りまわった。
「なんで、大学、辞めるんだ?」
俺は、昔のことを思い出しながら聞いた。
「お袋がね・・・。」
「お袋さんが。」
「ああっ、お袋が言うんだ。・・・最近『父さん、体が弱くなったわね。』ってな。」
「どっか、悪いのか、親父さん?」
「いやっ、ピンピンしてるよ。でもよ、お前も知っての通り、親父は酒飲みなんだ。
好きで、好きで、毎日浴びるように飲む。息子の俺が見てても、ひどいくらい飲むことがある。
以前なんか、閉店した店の中で飲んでいて、そのまま朝まで、そこで寝てたこともあった。
・・・俺やお袋がいくら言っても聞きやしない。『これが、俺のガソリンだ。』なんて、言う始末だ。」
「それだけ、好きなら仕方ないだろう。」
「ああっ、仕事はまともやってから、それだけなんだが、親父は仕事も“手を抜かない”。それどころか、頼まれもしないのに、余計なとこまでやってしまう。」
「俺のような金の無いお客には、助かってるよ。」
「そんなことを繰り返してたら、うちがもたなくなるのは目に見えてる。」
「親父さん、それだけバイクが好きなのさ。」
「ああっ確かに、親父はバイクが好きさ。好きが高じてバイク屋なった。親父がまだ小学生だったころ、親父の親父、つまり俺の祖父さんもイギリス製のバイクに乗っていたそうだ。その音を聞いた時『震えが来た』って、親父は言ってるよ。
戦争が終わって何年も経っていない頃で、その当時はバイクなんか高価で、家が一軒買えるほどだったそうだ。つまり贅沢品さ。贅沢が過ぎて、祖父さんは家の金を食いつぶした。おかげで親父は、中学を卒業すると高校に行かず、すぐに働くことになった。最初は小さな町工場で、旋盤機をいじってたそうだ。その後何回か仕事を変えて、最後にたどり着いたのは、小さなバイク屋だった。
バイクの仕事は、やっぱり楽しくて、必死で整備を覚えた。二十歳(はたち)の時にお袋と知り合って、次の年結婚した。勢いで一緒になったが、親父の稼ぎだけでは食えなくて、お袋も働いた。5年経ってやっと独立して自分の店をもった。そして俺が生まれた。
店を持ったはいいが、親父のあの性格だ。最初儲けは、あまり出なかったそうだ。もちろん、今でもそうさ・・。
借金も何度かした。今になって、馴染みの客が増え、なんとかやっているが、儲けがでないのは、あまり変わっていないらしい。」
深い、ため息が聞えた。
「ただ、お袋も、ここまで苦労した店だ。愛着もある。何とか続けたいと思ってる。それが、それが・・・良く分かる。しかも俺は贅沢にも、大学に行かせてもらってる。」
「親父さんもお袋さんも、お前のことを自慢してるよ。口には出さないが、“学”の無い親が、子供にだけは何とかしてやりたいという気持ちだよ。俺が言うと口はばったく聞えるかもしれないが、それは、素直に受け取っていいと思うがね。」
自分のことを省みれば、俺は何と“贅沢”なのだろうか。
「ああっ、それも分かるさ。・・・分かるから辛い。」
「大学辞めて、家を手伝うと言うのか?」
ヤツは、無言だった。俺は続けた。
「お前が大学を卒業して、バイク屋継いでも遅くないだろう。親孝行なんて、いつでも出来るさ。」
「それも考えた。ただ、づるづると大学に行くより、しっかりケジメをつけた方が良い場合もある。
まあっ、・・・そうだな。すまん・・・この話し、忘れてくれ。」
小さな、呟くような声だったが、これ以上続けることを拒否する強い意思を感じた。それは、昔からそうだった。
俺は、仰向けのまま空を見た。漆黒の空間に点々ときらめく星の海の間を短く白い線が走った。線は、明確な明るさを持っていたが、あっという間に消えてしまった。
“流れ星”を見たのは、これが初めてだった。
閉じた瞼の裏側が暑くなって、目が覚めた。周囲は、すでに明るくなり、刺すような太陽の陽射しで満たされていた。砂浜は、どこまでも白く、打ち寄せる波は青かった。時計を見ると、午前7時を示していた。
すぐ横の海の家が、プラッスチックのテーブル・セットを出して開店の準備をしていた。あたりを見回すと、すでにちらほらと海水浴を楽しむ者達がいて、その中に、
カリフォルニア野郎と3人の女子達、そしてアイツの姿もあった。
朝飯もそこそこに、海水浴を始めた。気温はぐんぐん上昇し、9時過ぎには30度を超えていた。あっという間にパラソルの花がそこかしこに開いて、白一色だった海岸をカラフルに染め上げた。
海に入るだけで楽しかった。ビキニ姿の女の子達は、誰もが眩しく輝いていた。水を掛け合うだけでも、波打ち際を走り回るだけでも、笑いがこみ上げた。
俺達は、十分に夏を満喫していた。
いい加減に疲れて、砂浜に寝転がった、アイツが居ないことに気付いた。
ふと、後ろを見ると松林から歩いてくる姿が見えた。
「どうした? 疲れたのか。」
俺は、ヤツに声をかけた。それには答えず俺のすぐそばまで来ると、着替えやらの入ったバックを取り上げ、自分の荷物をそこに放り込んだ。
「すまん。ちょっと野暮用ができた。・・・俺、先に帰る。」
そう言うと、バックを抱え急ぎ足で松林に向かって歩き出した。
「おうっ、どうした? 何かあったのか。」
俺は、ヤツの後ろ姿に向かって叫んだ。
それを聞いたヤツは、松林の手前で振り向いて「夕方、電話するよ。」と、言った。
その後、何かを言ったようだが、それは波の音でかき消され、聞き取ることができなかった。
残された俺達は、
カリフォルニア野郎の計画通り、昼前に海水浴場を出た。もちろん、駐車場にアイツのバイクはなかった。
東金IC手前のファミレスに入り、昼食をとった。店の窓から、反対側の海に向かう長い車列が見えた。
飯を食い終わると、俺は“一人で帰る”ことを皆に告げて、先に店を出た。
俺は高速には乗らず、国道を走った。逆の車線は何時途切れるともしれない渋滞が続いていたが、俺の向かう方向は“快適”と言えるほどスムーズに流れていた。この辺りはアップダウンの多い山間の一車線道路だが、信号は少ないので千葉市街まで高速と同じくらいの時間で行くことができた。市内は少し混雑していたが、それもたいしたことは無く幕張から
湾岸高速にのった。
結局、家にたどり着いたのは午後3時を少し回ったところだった。
親父もお袋も、妹もいなかった。
ガレージにバイクを入れて玄関を上がると、とたんに睡魔に襲われた。そのまま二階な上がり、窓を全開にして扇風機をつける。座布団を二つ折りにして枕代わりにし、畳に寝転んだ。Tシャツの袖口から入り込んだ風が、夏の海で火照った体に心地よかった。
俺は、眠ってしまった。
目が覚めた時、部屋の中は真っ暗だった。
窓の外に、昨日の夜、海岸で見たのと同じ半分の月が出ていた。
階段を下りていくと、居間からTVの音と話し声が聞こえてきた。階段を降り切った時、玄関近くで電話が鳴った。居間からお袋が出てきて「あらっ、起きたの。」と言って、俺の目の前を横切り電話を取った。お袋は、親しげに電話の相手と二言三言、言葉を交わした。
俺は、その様子を黙って見ていた。
「あんたによ。」そう言って、お袋は受話器を俺に差し出した。
耳に当てると、聞き覚えのある声が聞こえた。アイツの声だった。
「よおっ、帰ってたか。・・・先に帰って、すまん。」
「どうした? 昼間は、あわててたようだが。」
「なんでもないさ。いやっ、すまん。・・・実は、お袋が死んだんだ。昨夜な・・・。」
ここまで話すと、俺は二杯目の水割りを飲みほした。
カミさんがグラスを受け取り、冷蔵庫から氷を取り出すと入れて、俺に手渡した。
「そんな話、初めて聞いたわ。」
「俺も、初めて話した。」
俺は、ウィスキーをグラスに注いだ。
「病気だったのさ。俺には話さなかったが、長いこと患っていたらしい。通夜が翌日で、その知らせだった。」
「ふーん。そして彼は学校を辞めて、バイク屋を継いだってわけね。」
「その通り。・・・もう、20年以上前のことさ。・・・今、思うと、それはそれで良かったのかもしれない。」
「どうして、そう思うの?」
カミさんは、自分のグラスにもウィスキーを注ぎ、ソーダ水を入れた。それは、最近の“お気に入り”だった。
「“いや”だったらここまで続かない。人間は“使命感”だけで、物事を決めると長続きはしないものだ。結局、ヤツにはバイク屋が合っていたし、好きだった。それは幸せなことさ。人間はどこかで右か左か決断しなければならない時がある。若い時は決め難い場合もあるが、そんな時何かのきっかけで、それが決まる場合がある。・・・つまり、良く言う“運命”というやつさ。でも、俺に言わせれば“運命”など無い。本人が前から望んでいたことが、少しだけ早まっただけなのさ。」
「そうとも言えるわね。」
その言葉には、少し釈然としない感情が見えた。
「ところで、君はヤツのカミさんのこと、知ってるだろう。」
「ええっ、もちろん。一昨日も電話で話したわ。・・・まさか、まさか、その時の三人の内のひとりなの。」
俺は、ニヤリと笑った。
「ねえっ、誰なの。誰なの。・・・分かった。“ショート・カット”の子ね。彼が“好みだ”と言った。」
「違うよ。最初に俺に話しかけてきたロングヘアーさ。彼女は、バイクが好きで半年後ヤツのところに転がりこんだのさ。」
「そんな話、初めて聞いたわ。」
「俺も、初めて話した。」
三杯目の水割りを“カラ”にすると、酔いが回ってきたのが分かった。